コレスペ まい・エピソードを冊子にしました。
タイトルは、「キヲクノカケラ」
みんなのキオクの断片を紹介しています。
こちらからどうぞ。
http://www.koresupe.sakura.ne.jp/kioku01.pdf
印刷して、冊子にして読みたい場合は、こちら。
http://www.koresupe.sakura.ne.jp/kioku01book.pdf
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コレスペ まい・エピソードを冊子にしました。
タイトルは、「キヲクノカケラ」
みんなのキオクの断片を紹介しています。
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小学5年生の時。僕は、学校から帰っても、夕ご飯まで家の周りを散歩するのが常だった。
ある時。歩道を車いすで走っていると。。
「あ!やべ」
”ガタン”と、車いすが横倒しになって、僕は車道に投げ出された。
よそ見をしていたのだろう。。誤って歩道から脱輪してしまったのだ。今までの人生の中で、これだけ恐怖を感じたことはない。。
強くアスファルトに頭を打ち付けた。。
自分の力では起きれない。。周囲を見渡しても自分一人。
「この後どうなるんだろう。。」
先ほどまでの恐怖とは別に、孤独感にさいなまれた。
「なんでこんなことに。。」
無性に後悔の念が僕を襲い日頃の不注意さを反省した。。
助けを呼ぶにも、通りかかる人はいない。。ちょっと、車道に出すぎている。
「車がきても大丈夫かな~。気づくかなー」って思っていたところ、5分くらいたっただろうか。。自動車が勢いよく迫ってきた!
一瞬、「ひかれる!」と思った。
車は、数メートル手前で止まり、中から、男性が降りてきた。
「大丈夫ですか?」「はい」
「自分で起きたりできますか?」「ちょっとできません。。」
「どうしたらいいですか?」「起こしてもらっていいですか?」
そのようなやりとりを交わし、乗用車の大人の人は、車を走らせていった。
事故現場から自宅までは、100メートルくらいのところ。家の近くまで車いすを走らせて戻ると、母親が立っていた。
「帰ってきたの?」僕はうつむき加減に。。「帰ってきた。。」
それから、何もいわずに、家の中へ。。
5分くらいたった後、「さっき、歩道から落ちて横転したんだ。。」
母は慌てることなく、真っ先に身体に怪我がないか調べてくれ、そして「車いすは大丈夫だったの?」と確認してくれた。「家まで、走れたから大丈夫だったと思う。。」調べてみると、右タイヤのスポークが6本ほどおれている大事故だった。。
母は、「あんたそそっかしいからねー。いつか大けがするよ。気をつけるんだよ。」と僕のそばに寄り添っていた母がいた。
昭和38年。札幌にある大学病院の整形外科病棟に小学校5年生と6年生の2年間入院した。入った病棟は大部屋で15人ほど。大人の人ばかりだった。
毎日検査ばかり。学校はなく、遊びといっても病棟を散歩するくらい。たまに、大人の入院患者さんに将棋を教えてもらった。
病院を抜けだしたこともある。その頃には、同じくらいの年齢の子もいて、数人で何度も抜け出した。病院の近くには、焼き芋屋やトウキビ屋があり、よく買って食べたことがあった。
翌年の昭和39年には、東京オリンピックが開催された。病棟では、テレビが一つだけあり。人だかりができていた。その頃、病院にまだ数少ない車いすにのってみた。興味があったからだが、こぐのが楽で早く動けた。それから、歩くのをやめた。今になってみると、ちょっと後悔だ。
中学になるときに、八雲に入院した。当時は、まだ養護学校はなく、ひまわり分校だった。養護学校の設立は昭和45年だ。
教室は、病院の中にあって、3つの部屋があった。午後からの授業だった。
19歳。周りの人がバタバタと逝ってしまった。。
その日は突然だ。看護師さんがいつも部屋に来る時間に来なくなる。いつもは持ってこない、段ボールが置いてある。いつもと微妙に違う空気感。
Aがいなくなったときもそうだった。
夕方。僕のベッドの向かいのAが、具合が悪そうに、看護師さんに聞こえないくらいの小さい声で、「看護師さん来てー」と呼んでいた。ちょうど、夕食後のおやつを食べた後だ。
「どうしたー?」「インターホン押せるかー」ってきくと、「逃げられたー」って。自分も焦ってしまい押せなく、隣に頼んだ。
すぐに看護師さんが駆けつけたが、だんだんと意識が落ちていた。
アンビューバックでベッドごと運び出された。
僕はずーーと、ドクドクなっていた。しきりに部屋の人に、「大丈夫かな?」「帰ってくるかな」って悲しくなって聞いていた。
「帰ってくるサー」
夜8時くらいまで誰もこなかった。
遠くから、「Aのばあちゃん呼んでー」っと看護師さんの声が聞こえた。
しばらくして、先生が、何もいわずに、部屋にはいってきた。ベッドのないそのスペースの棚をしばらく、眺めた後。
軽くおじぎをしていた。
遠くから、「カシャンカシャン」と、音が聞こえた。病棟の入り口の自動ドアの段差で、ストレッチャーが弾んだ音だ。
横になった僕のベッドから、遠くに、ストレッチャーにのった、タオルがみえた。
翌日、先に車いすにのった、同室の人に聞いてみた。
「どう?」「いなかった。。」
運ばれていった部屋には、誰にもいなかったようだ。
過ぎるのが早く、一瞬だ。泣いてもいられなかった。
その後、社長というあだ名でしばらく呼んでいた。名前で呼ぶとつらくなるからだ。
「ゲームやったり、すぐ泣いてたよねー」と友達と話した。
僕の目の前の空いたままの空間。しばらくの間辛かった。。
当時の病棟は、今の小学生と違って、ゲームやCDなどのあそび道具は一切禁止。
だから、学校にいかない時間は暇をもてあまし、いたずらや喧嘩が遊びのようなものだった。
例えば、僕が同じ部屋の子に命令して、コンセントに針金を押し込ませるいたずらをしたことがあった。
僕はしたたかなほうだと思う。
それでもちゃーんと危なくないように、ビニール巻いていたのだが、ビニールが溶けて、コンセントについてしまった。はがそうにもはがれない。案の定しばらくして、看護師さんにみつかった。
「なにこれ!」こっぴどくおこられた。当時は、何でも連帯責任。罰といっても、筋ジスだから立たされることはないんだけどね。
首謀者の僕以外のみんなも本日のおやつ抜きの罰。
でも、まだ話しの続きはあるんだ。
僕のいた部屋は8人部屋。ベッドはなく、畳で布団を敷いて寝起きしていた。
その日の夜。消灯してから、仲間と相談し、2~3人が、配膳室に置きっぱなしになっている、みんなのおやつをこっそりと職員の目を盗んでとりにいくことに。
しかし。。。一人が廊下で転んで、見つかってしまった。。。
それから、一週間のおやつぬきに。。。
当時の病棟はしょっちゅう、いたずらけんか、とっくみあいだった。
僕らの喧嘩。。。はスローペース。ジャイアント馬場のチョップか?と思えるほど、スローモーションの動きのぱんち。だって、腕をちょっとづつ、頭の上までもちあげ、重力でふりさげるでしょ。
また、転んだら、膝からゆっくりと立ち上がって、また喧嘩。こんな感じだったんだ。
なんだろう。ある意味、筋ジスっていう病気だけど、普通の子と変わらなかった気がするなー。
小学4年に同級生と口げんかをした。
内容は今思い返してみても、些細なこと。確か。。「バカ」だのなんかって話だったと思う。しかし、そのときは、虫の居所が悪かったのだろう。なんか、カッときて、つい、そいつに突っ込んでいった。「おりゃーーーーーー」
しかし、ひらりと身をかわされ、僕はまったくの見当違いのほうへ車椅子を走らせ勢いあまって、ドアにぶつかった。
運の悪いことは続くものである。ドアにはガラスが入っており、見事にバラバラと割れていた。
その後はご想像のとおりで、二人の先生から、こっぴどくしかられた。「怒った気持ちはわかるけど物は壊すな」と。。。
怒りの気持ちはどこかに吹っ飛び、ただただ、アホだなーって思えた瞬間だった。
今日の教訓「怒っても物は壊すな怪我の元」
そんな僕を表すエピソードなら山のようにある。傷の絶えない小学生だった。同じ小学4年のとき、座る椅子がないからと教室にあったキャスター付きの回転いすに腰掛けた。
ほんと。。。じっとしていられない。。。そのまま、椅子を回転させぐるぐる回って遊んでいると、案の定。前のめりになってこけてしまったー。”ガッツーーーン”2本の前歯が折れてしまう。
お茶目の代償は高かった。。
その時に折れた前歯は今では、何を隠そう差し歯なんです。。
今日の教訓「おだってもバランスくずすな前差し歯」
中学を卒業して、高等部への進学は、地元の肢体不自由学校を選択した。重度の身体と知的の障害をもつ脳性麻痺を主に対象としているみたいで、本当は筋ジスの僕はだめだったみたい。
「受験されても、落とさなくてはいけないかもしれないので、辞退してください。」って話しもあったみたい。それでも受験して、幸いにも定員ぎりぎりだったようだけど、おまけ!?で入学できたんだけどね。
でも、中学で一緒だった友達は、別の高等養護学校に行ってしまったんで、高校では、友達もできないだろうし、おもしろくないだろうって正直思っていたんだ。
なんだろう、どこか覚めた、寂しさがあったんだよね。
でも、実際入学してみると、ほんの一週間でその楽しさに気づいたんだ。カルチャーショックだった。うまくいえないんだけど、純粋っていうのかな。
それまでは、そんな風にはおもっていなかったんだよね。
中学のときも学校に、脳性麻痺の生徒はいたんだけど、遠目にみていて何か、でかい声で騒ぐし、何か違和感っていうのかな。距離を感じていた。
でも、今は、自分にないものをいっぱい持っているし。同じクラスになれてよかったなって。
確かに中学よりは、勉強に熱心になれなかったんだけど、それよりも、人間のよさ。人間っていいなーってことを学べた感じ。人と関わりをもつ、人はお互いに影響しあっているって。
言葉で教えられたんじゃないんだよね。雰囲気でかな。
先生が、かかわっているのをみていて、その影響力に、ただただ、すごいなーって。
誰でも人に迷惑をかけているってことは常に前提で、だからこそ、普段は人にやさしくしなくちゃって思う。
受験でも自分が受かると、誰かは必ず落ちている。
自分の行動が、いいか・わるいかはともかく、常に、周りに影響しているものだと感じたんだ。
コレスペには、いろんな人がつどっています。
ここでは、そんな彼らを紹介していきます。
コレスペに欠かせない存在なのが、『わっか』
彼女は自分の部屋以外では、とても無口。
でも、そんなことは感じさせないほど、楽しさへのアンテナは驚くほど、するどい持ち主です。
笑い声がする現場には、いつも彼女の姿があります!
そんな彼女も、しっかりとコレスペの仕事を担っています。時には、コレスペ広報!?の一員として、写真を撮りに行くことも。
不思議なことに、彼女は言葉を一言もいわないのに、皆さん決めポーズをしてくれます。(これは、彼女にしか撮れません。。)
また、絵のセンスは独特です。
いかがです?
そんな自由奔放な彼女には、『ジプシー』。。のあだ名がぴったりです。
小さい頃から、よく頭の中で独り言をいっていた。(今もやっているけど)自動車の効果音や、考えたことを自分の中で想像するんだ。想像遊びは僕の支えだった。
ばあちゃんや姉ちゃんには、「変な癖がつくからやめなさい!」って何度か注意されていた。良いことじゃないって。
今思えば、健常者になりたかったからだと思う。でも、そのときは、車を運転したいって気持ちや、寂しいって思いから。。。
早く大人になりたかったと願っていた。大人になると、力がつくと思っていたから。車を運転できれば、少しは気分が変われるかなって思っていた。
でも、高校生になっても、どんどん力は落ちてきた。ちっとも思っていたことと違う。歩いている時のほうが咳や肺の力があった。
でも、こうなるんだろうってことは、周りがそうだったから、昔から感じていたことだった。
だから、高校になったとき、「もう想像遊びはやめないって決めた」
卒業したとき、18歳で、想像遊びで車の免許をとった。
外泊のとき、家までは10時間くらいかかる。助手席に座っていても、十分にドライブの気分になれたんだ。
ハプニングといえば、家のお風呂でおぼれたことがあった。
小学6年のころの話。お風呂では、いつも手すりにつかまって湯船に入っていた。
身体を浮かしながら遊んでいると、おしりが急に浮いてきて戻らなくなった。。
「う。。息が。。できない。。」
顔がお湯につかってしまった。。
口と鼻が沈んでいる深さは、ちょうど1センチくらい。
とっさに、お風呂の水を飲んだ。
お湯を飲んだら水かさが下がると思ったからだ。
「・・・・だめだーーー」子供の浅知恵だった。
そんなことで、お湯が少なくなることはない。。
(そうだ。。栓を抜けばいいいんだ)
幸い水中だったので、身体は自由に動けた!
ゴゴゴと音を立てながら、湯船のお湯が少なくなっているのはわかったが、いっこうに、体は浮いてこない。それどころか、水かさと一緒に、身体も一緒に沈んでいく。。
どうやら、お湯がすべてなくならないと、顔はお湯から出られない。。。。
(パニックになった。。死ぬ。。。。。)
それまでの出来事が走馬燈のようにフラッシュバックしてきた。。。
(このまま死ぬわけにはいかない!)
ふと、我に返り、(仰向けになればいいんじゃないか)
必死に、身体を動かした。。。
そのとき。”ガラーっ”と、お風呂場をのぞきに来た母さんがいた。
(助かった。。。)
「おーーーい。何してるの?」冷静な感じで、声をかけられたのが聞こえた。。
「どっかいっちゃうよー。。(笑)」
必死に、横を向いた僕の表情をみてか、まずいと思い、助け上げてくれた。
「おしりがぷかぷか浮いているから、遊んでいると思ったよ~。あーびっくりした~」
こうして、僕の人生の中で1・2位を争う出来事の幕が閉じた。
それからしばらくは、おぼれる夢をみた。今でも、水に顔をつけるのは苦手である。
小学2年生の時。
教室でクラスメイトの二人が言い争いをしていた。
ほっとけない僕は、仲裁のため、二人の間に割って入った。
「何してんの?」
「うるさい!」と一喝され、そのまま口げんかは続行。。
言い合いの内容はどうやら、物をとったとられたと些細なこと。
「何そんなことで喧嘩してるんだよー」
すると、、、一人が、僕の胸ぐらにつかみかかってきた。
そのまま僕とそいつは床に倒れ込み、とっくみあいになった。
筋力が弱い僕のこと、当然、力で勝てる見込みはない。
そこで、出した奥の手は。。。。
「がぶり!」
思いっきり、腕に噛みついてやった。
「この!何だよう(怒)」とモグモグと反抗しながら、噛みついた腕は離さなかった。
しばらくして、「わかった。わかった。降参降参。離してくれ~」
意外と歯って強い!
後日、そいつの親と自分の親がお互いに謝罪していたというのはいうまでもない。。。
小学校に入学してすぐに、上靴がゴミ箱に捨ててあった。
あー。これがいじめなんだとすぐに気づいた。
小学校中学校を通して、気のおける友人という友人はなぜだかできなかったように思える。
いじめを強く意識するようになったのは、小学校3年生の時。
”ばかだの、遅い”など、言葉のいじめを感じるようになった。
その頃だろうか、1週間ほどのストライキを起こす頻度が増えていった。母親もうるさく、学校に行きなさいというが、それでも断固学校に行かずにいると、担任の登場となる。
「勉強が遅れるぞー~」とはじめは優しい口調だが、かたくなな僕にあきれたのか、最後は決まって、抱きかかえられて無理矢理に学校まで連れて行かれることを繰り返していた。
「いじめへの不安?」
それもあるが、その頃には、床からも自分で立ち上がれなくなり、車いすを使う頻度も増えていった。体育に参加できない、いろんな活動の制限が僕の学校へ行くという意味を失わせていたかもしれない。
再び学校へと思うようになったが、小学3年の秋に、盲腸で入院したことがきっかけだった。
クラスメイトからたくさんの励ましの手紙をもらった。
はっきりは覚えていないが、そのことがうれしくなぜが安心した感じがした。
小学3年になってから転ぶ回数が増えてきた。
自分の力だけでは立ち上がれなくなっていたが、クラスメートが助けてくれていた。
小学3年の秋には、転んで小さなけがばかりつくっていた。
学校の先生や親は、危ないということで、車いすを薦めるようになっていた。
その年の冬。
ある朝、家から学校までの7~800メートルほどの距離で、何度も転び、いつまでたっても学校にたどり着かないことがあった。
それをみかねた母親が、真っ赤なそりに僕をのせて、学校までの登下校の付き添いをしてくれるようになった。
ある時、学校の窓から、自分を眺めている生徒がいた。
それからだ!
他の人も自分のことをみているのではと、周りが無性に気になりはじめた。
その頃導入した車いすも、車いすに乗っている自分が変な感じに思えてきた。転んでもいいから、歩いているほうがいいかなと車いすをいやがる時もあった。
筋ジストロフィーにとって、運動会ってあまりよい思い出がないと聞くが、僕はそうでもない。いろいろなことに挑戦する機会でもあった。
小学2年の頃、50メートルの徒競走は遅いけど出場した。
車いすになってからも、運動会にはなるべく参加し続けた。5年生なって、組み体操の種目が追加された。
先生からは、「どうする?」と聞かれたが、そういえば、普段の遊びの中で、友達が車いすの上で遊ぶことがあったので、それならばと、車いすを使って組み体操に出場できないかと担任と相談をすることになった。
どうやら、自分は危険な遊びを好むらしい。(^_-)
道理で、生傷が絶えないわけだ。
「先生も乗る気で、じゃあやってみようと」いうことになった。
ピラミッドの組み体操では、下の段が3人で上が二人、頂上が一人。僕は、下の段の端っこで、2段目の子が車いすの肘掛けに足をおいて、ピラミッドの形をつくった。
さて、次はブリッジだ。
ブリッジは、二人一組のペアになって、足をもって逆立ちをするような形になる。
僕の場合は、車いすの介助バーに足をかけて組むことにした。
実のところ、快く後押しをしてくれた担任の先生でも「ひっくりかえるのでは。。」ひやひやものだったらしい。(@_@)
僕の小学生時代の一つを語るなら、やはり、白パンツ事件だ。
それまでの僕はなんといってもトランクス派。
だって、どうみても、グンゼの白ブリーフだと、かっこ悪いでしょ!
小学4年生までは、手すりのある男性用便器の前で、担任の介助で立ち上がらせてもらい用をたしていた。
それが、小学5年生で、それまでの普通学級から特別学級への編入となり、いろいろなことが見直しになった。
授業は一緒だと聞かされていたが、体育はしょうがないにしろ、音楽や家庭科も別授業になった。いろんなことが不満で、僕の授業態度には、顔にありありと不満げな表情をうかべていた。ささやかな僕ができる抵抗だったのだと思う。
この時、それまでトイレにいっていた排泄が尿器に変わった。
先生からは、「社会の窓が開いている白パンツ(ブリーフ)をはきなさい」との衝撃発言。もちろん、答えはNOだ!
しかし、悲しいながら「でも、大変だから。。」の一声に説得されてしまったと記憶している。。
ある時、クラスメイトと、「白パンツってダサイよねー。」と談笑していた。自分も混ざって「だよねー」と相づちをうっていたが、当の自分もすでにズボンの下は“白パンツ”。苦笑いだった。(*_*)
発覚したのが、その年にあった修学旅行。
お風呂場での着替えの時に、「あーおまえ、白パンツじゃん。何はいてんのー。ダサーー。」と馬鹿にされてしまった。。
「だって、しょうがないじゃん。。」
後日談としては、その後1年で、担任の先生が替わり、小学6年で、教頭先生が担任になった。
出会った早々の言葉は、、
「先生、柄パンでもいいですか?」
「いいよ」の軽い答えに、自分の視界が少しだけ、開けた気分になった。
パンツといえば、小学2年のプール授業のあと。
パンツをはかずにズボンをはいて教室にもどったことがあった。濡れた体ではズボンがきつくはきづらかったからだ。
そこで、大失敗。「おーい。誰かパンツ忘れているぞー。誰のだ~」クラスメイトが手を挙げないと、先生が全員のパンツを確認する行為にいたった。。。(>_<)
最後は僕。見事、発覚。
教室のロッカーの隅ではくはめに。。。とほほである。
僕が歩かなくなったのは、小学校3年生の7月。小学校1年生より八雲病院に入院している。なぜそんなにはっきり覚えているかというと、夏休みの外泊した時に、立ち上がれなくなっていると気づいたからだ。夏休み前に、ベッドに座っていると、バランスを崩してベッドから転げ落ちた。そのときに、腕をついてしまったのだ。「やばい」一瞬そう思ったが、痛みもその時点では特になかった。しかしやはり夜になり腕が腫れ上がり、翌日レントゲンにて、ぽっきり折れていることをしった。それからは、また歩いていて転んでけがをしてはまずいとの判断で、治るまで車いすということになった。夏休みの外泊時、立ち上がれなくなっていた自分にはショックだった。「車いすにのっていたからだ。。」そう思ったがそれは事項自得。思いをぶつける場がなかった。
車いす生活になっても、今と違い、当時の病棟はほとんどの生活者が歩くか、いざりの生活である。学校までは、車いす。訓練室では、補装具をつけての歩行訓練。そして、病棟では、いざりで移動していた。9人クラスでも、たいがいのことは先生に手伝ってもらえるので、学校では不自由にことかかなかったが、病棟では、いざりの生活では、不便さがあり、歩けないというよりも、いざりである自分にくやしさがあった。
当時の病棟の生活は朝6時に始まり、みんなベッドから床におろされる。そして、プレールームまでいざりで移動し、食事をして、また自室に戻るのである。時間は30分。往復1時間移動についやすのである。
自分のことはよくしっているけど、でも他の人は?
コレスペでは、そうした、「あの時」「あの場面」でのみんなのエピソードをあつめて紹介していきたいと思います。
まずは、第一弾。「僕が歩かなくなった理由」
デュシェンヌ型筋ジストロフィーの場合、自然歴では、9歳~10歳には歩行ができなくなるといわれています。でも、明日から急にあるけなくなったわけではありません。そのときのエピソードは。。
A氏の場合
:「車いすじゃないと学校には通えないといっていたよ~」
そう母親から聞かされた時、「なぜそんなことをいったんだー」と、強い怒りがあったことを覚えている。
うろ覚えだが、教育委員会もしくは学校校長が、母にいったそうだ。
当時は、歩行器で学校の中は移動していた。使いたくもなかったが、小学校3年生の時、当時はまだ歩行器を使わなくても歩けていたが、危ないからと、療育センターで自分用につくってもらった歩行器を学校でも使うことになった。しばらくして気づいたのは、歩行器を使うことで歩けなくなっていたことだ。
だいぶ前より、車いすのほうがよいとはいわれていたが、4年生になる新学期にあわせて、車いすに変えることにした。
教育委員会や学校側に怒りをぶつけていたが、あとあと聞くと、もともと、教育委員会からは、養護学校に行きなさいといわれていたようで、それを校長先生が、なんとか学校に通えないかということで、手すりの設置をしていてくれたらしい。今回の車いすのこともそのような配慮の一つだったと思う。
卒業してからは、その校長先生と会うことはないが、在学中は、しょっちゅう、母親につれたれて自宅にいっていた。
校長室で、五目並べをしていたことを覚えている。
C氏の場合
:最近転びやすいと感じていた。しょっちゅう転んでいた。
誰からいわれたというわけではなく。ただ感じていた。当時は、歩くのでいっぱいいっぱいだったことを覚えている。特に、早く車いすになりたいと思っていたわけではない。いつだったかは記憶にないが、ある時から、車いすのほうが安全だと思い、車いすで学校への登校を始めた。
学校では、長い距離の移動は、車いすで。教室では、歩くときもあった。
病棟では、部屋のベッドの周りではたっていた。
当時は、床にカーペットをひいて、いざって(床に尻をつけたまま、ずって移動のこと)いた。
1年くらいかな。その後は、床よりもベッドのほうが活動しやすいと思い、看護婦さんに相談してベッドでの生活に切り替えた。
D氏の場合
:小学生4年の時、ころびやすくなっていた。それでもまだ歩いていたが、装具の靴のかかとを車いすで踏まれて、こけてしまった。そのときにねんざをしてしまった。直った頃には歩けなくなっていた。
なるべく長く歩いていたかったとの思いはあったが、落ち込みはしなかった。