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ホッペタッチスイッチT

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おさむくんの電動車いすはジョイスティックコントローラではなく、スイッチ操作。
熱可塑性素材を使って右手に一つ。
ジェリービーンスイッチの右足。そして、徳永装器研究所
のホッペタッチスイッチTを顎の位置で使います。

さて、これからは、この3つのスイッチで電源・ティルト・スピードと、前後左右の操作ができるように工夫します。

まい・エピソード: 兄弟

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学校では壁を伝って歩いていた。小学4年になって、まわりから、「あまり無理はしないように」と言われるようになった。
そういえば、同じ筋ジスの兄貴もそうだった。。
数日後、学校では、兄貴の”おさがり”の車いすを使うようになった。

ある日、夕飯の支度をしていた母親に、「僕の病気は何?」と、聞いてみたことがある。
今になって思えば、そのときの母はどんな心境だったのだろう。。
母の表情は覚えていないが、確か。。兄貴から、
「そんなのは自分で調べるんだよ」って言われた気がする。

本日のコレスペ

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正月休みのアンニュイな感じもようやくおさまり。
いよいよ、気持ちは仕事への本格シフトのようです。

みんな当たり前に作業していますが、24時間の呼吸器をつけても仕事をしようなんて、熱いです。

まい・エピソード :登校拒否

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小学校に入学してすぐに、上靴がゴミ箱に捨ててあった。
あー。これがいじめなんだとすぐに気づいた。
小学校中学校を通して、気のおける友人という友人はなぜだかできなかったように思える。
いじめを強く意識するようになったのは、小学校3年生の時。
”ばかだの、遅い”など、言葉のいじめを感じるようになった。
その頃だろうか、1週間ほどのストライキを起こす頻度が増えていった。母親もうるさく、学校に行きなさいというが、それでも断固学校に行かずにいると、担任の登場となる。

「勉強が遅れるぞー~」とはじめは優しい口調だが、かたくなな僕にあきれたのか、最後は決まって、抱きかかえられて無理矢理に学校まで連れて行かれることを繰り返していた。

「いじめへの不安?」
それもあるが、その頃には、床からも自分で立ち上がれなくなり、車いすを使う頻度も増えていった。体育に参加できない、いろんな活動の制限が僕の学校へ行くという意味を失わせていたかもしれない。

再び学校へと思うようになったが、小学3年の秋に、盲腸で入院したことがきっかけだった。
クラスメイトからたくさんの励ましの手紙をもらった。
はっきりは覚えていないが、そのことがうれしくなぜが安心した感じがした。

まい・エピソード: 赤いそり

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小学3年になってから転ぶ回数が増えてきた。
自分の力だけでは立ち上がれなくなっていたが、クラスメートが助けてくれていた。
小学3年の秋には、転んで小さなけがばかりつくっていた。
学校の先生や親は、危ないということで、車いすを薦めるようになっていた。
その年の冬。
ある朝、家から学校までの7~800メートルほどの距離で、何度も転び、いつまでたっても学校にたどり着かないことがあった。

それをみかねた母親が、真っ赤なそりに僕をのせて、学校までの登下校の付き添いをしてくれるようになった。
ある時、学校の窓から、自分を眺めている生徒がいた。
それからだ!
他の人も自分のことをみているのではと、周りが無性に気になりはじめた。

その頃導入した車いすも、車いすに乗っている自分が変な感じに思えてきた。転んでもいいから、歩いているほうがいいかなと車いすをいやがる時もあった。

まい・エピソード: こくはく

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小学2年生の時、クラスメートの女の子からの突然の告白。
「将来、結婚しようね(*^_^*)」

子供の間ではよく出る話題だが。。
次の日になって、
「○○くん、将来、私と結婚しようね」
と他のクラスメートへ告白しているのだ(~o~)。

しかも、その理由が・・
「だって、将来病気で介護が大変だから。。」
と。。。
なんだか~。あがったりさがったり。
これが、僕の人生初の失恋をした瞬間だった。(*_*)

まい・エピソード: くみたいそう

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筋ジストロフィーにとって、運動会ってあまりよい思い出がないと聞くが、僕はそうでもない。いろいろなことに挑戦する機会でもあった。
小学2年の頃、50メートルの徒競走は遅いけど出場した。
車いすになってからも、運動会にはなるべく参加し続けた。5年生なって、組み体操の種目が追加された。
先生からは、「どうする?」と聞かれたが、そういえば、普段の遊びの中で、友達が車いすの上で遊ぶことがあったので、それならばと、車いすを使って組み体操に出場できないかと担任と相談をすることになった。
どうやら、自分は危険な遊びを好むらしい。(^_-)
道理で、生傷が絶えないわけだ。

「先生も乗る気で、じゃあやってみようと」いうことになった。
ピラミッドの組み体操では、下の段が3人で上が二人、頂上が一人。僕は、下の段の端っこで、2段目の子が車いすの肘掛けに足をおいて、ピラミッドの形をつくった。

さて、次はブリッジだ。
ブリッジは、二人一組のペアになって、足をもって逆立ちをするような形になる。
僕の場合は、車いすの介助バーに足をかけて組むことにした。
実のところ、快く後押しをしてくれた担任の先生でも「ひっくりかえるのでは。。」ひやひやものだったらしい。(@_@)

まい・エピソード: 白いブリーフ

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僕の小学生時代の一つを語るなら、やはり、白パンツ事件だ。
それまでの僕はなんといってもトランクス派。
だって、どうみても、グンゼの白ブリーフだと、かっこ悪いでしょ!
小学4年生までは、手すりのある男性用便器の前で、担任の介助で立ち上がらせてもらい用をたしていた。
それが、小学5年生で、それまでの普通学級から特別学級への編入となり、いろいろなことが見直しになった。

授業は一緒だと聞かされていたが、体育はしょうがないにしろ、音楽や家庭科も別授業になった。いろんなことが不満で、僕の授業態度には、顔にありありと不満げな表情をうかべていた。ささやかな僕ができる抵抗だったのだと思う。
この時、それまでトイレにいっていた排泄が尿器に変わった。

先生からは、「社会の窓が開いている白パンツ(ブリーフ)をはきなさい」との衝撃発言。もちろん、答えはNOだ!
しかし、悲しいながら「でも、大変だから。。」の一声に説得されてしまったと記憶している。。

ある時、クラスメイトと、「白パンツってダサイよねー。」と談笑していた。自分も混ざって「だよねー」と相づちをうっていたが、当の自分もすでにズボンの下は“白パンツ”。苦笑いだった。(*_*)
発覚したのが、その年にあった修学旅行。
お風呂場での着替えの時に、「あーおまえ、白パンツじゃん。何はいてんのー。ダサーー。」と馬鹿にされてしまった。。
「だって、しょうがないじゃん。。」

後日談としては、その後1年で、担任の先生が替わり、小学6年で、教頭先生が担任になった。
出会った早々の言葉は、、
「先生、柄パンでもいいですか?」
「いいよ」の軽い答えに、自分の視界が少しだけ、開けた気分になった。

パンツといえば、小学2年のプール授業のあと。
パンツをはかずにズボンをはいて教室にもどったことがあった。濡れた体ではズボンがきつくはきづらかったからだ。
そこで、大失敗。「おーい。誰かパンツ忘れているぞー。誰のだ~」クラスメイトが手を挙げないと、先生が全員のパンツを確認する行為にいたった。。。(>_<)
最後は僕。見事、発覚。
教室のロッカーの隅ではくはめに。。。とほほである。

まい・エピソード: 30分

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 僕が歩かなくなったのは、小学校3年生の7月。小学校1年生より八雲病院に入院している。なぜそんなにはっきり覚えているかというと、夏休みの外泊した時に、立ち上がれなくなっていると気づいたからだ。夏休み前に、ベッドに座っていると、バランスを崩してベッドから転げ落ちた。そのときに、腕をついてしまったのだ。「やばい」一瞬そう思ったが、痛みもその時点では特になかった。しかしやはり夜になり腕が腫れ上がり、翌日レントゲンにて、ぽっきり折れていることをしった。それからは、また歩いていて転んでけがをしてはまずいとの判断で、治るまで車いすということになった。夏休みの外泊時、立ち上がれなくなっていた自分にはショックだった。「車いすにのっていたからだ。。」そう思ったがそれは事項自得。思いをぶつける場がなかった。
車いす生活になっても、今と違い、当時の病棟はほとんどの生活者が歩くか、いざりの生活である。学校までは、車いす。訓練室では、補装具をつけての歩行訓練。そして、病棟では、いざりで移動していた。9人クラスでも、たいがいのことは先生に手伝ってもらえるので、学校では不自由にことかかなかったが、病棟では、いざりの生活では、不便さがあり、歩けないというよりも、いざりである自分にくやしさがあった。
当時の病棟の生活は朝6時に始まり、みんなベッドから床におろされる。そして、プレールームまでいざりで移動し、食事をして、また自室に戻るのである。時間は30分。往復1時間移動についやすのである。

さあお仕事ですよ!

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壁一面に貼ってあるのは、函館市内の道路地図。

このマップをデジタルデーターにおこし、段差や車いすトイレの有無などの、バリアフリー情報を書き入れる仕事をしています。

まい・エピソード: 僕があるかなくなった理由。

自分のことはよくしっているけど、でも他の人は?
コレスペでは、そうした、「あの時」「あの場面」でのみんなのエピソードをあつめて紹介していきたいと思います。
まずは、第一弾。「僕が歩かなくなった理由」
デュシェンヌ型筋ジストロフィーの場合、自然歴では、9歳~10歳には歩行ができなくなるといわれています。でも、明日から急にあるけなくなったわけではありません。そのときのエピソードは。。

A氏の場合
:「車いすじゃないと学校には通えないといっていたよ~」
そう母親から聞かされた時、「なぜそんなことをいったんだー」と、強い怒りがあったことを覚えている。
 うろ覚えだが、教育委員会もしくは学校校長が、母にいったそうだ。
当時は、歩行器で学校の中は移動していた。使いたくもなかったが、小学校3年生の時、当時はまだ歩行器を使わなくても歩けていたが、危ないからと、療育センターで自分用につくってもらった歩行器を学校でも使うことになった。しばらくして気づいたのは、歩行器を使うことで歩けなくなっていたことだ。
だいぶ前より、車いすのほうがよいとはいわれていたが、4年生になる新学期にあわせて、車いすに変えることにした。
教育委員会や学校側に怒りをぶつけていたが、あとあと聞くと、もともと、教育委員会からは、養護学校に行きなさいといわれていたようで、それを校長先生が、なんとか学校に通えないかということで、手すりの設置をしていてくれたらしい。今回の車いすのこともそのような配慮の一つだったと思う。
卒業してからは、その校長先生と会うことはないが、在学中は、しょっちゅう、母親につれたれて自宅にいっていた。
校長室で、五目並べをしていたことを覚えている。

C氏の場合
:最近転びやすいと感じていた。しょっちゅう転んでいた。
誰からいわれたというわけではなく。ただ感じていた。当時は、歩くのでいっぱいいっぱいだったことを覚えている。特に、早く車いすになりたいと思っていたわけではない。いつだったかは記憶にないが、ある時から、車いすのほうが安全だと思い、車いすで学校への登校を始めた。
学校では、長い距離の移動は、車いすで。教室では、歩くときもあった。
病棟では、部屋のベッドの周りではたっていた。
当時は、床にカーペットをひいて、いざって(床に尻をつけたまま、ずって移動のこと)いた。
1年くらいかな。その後は、床よりもベッドのほうが活動しやすいと思い、看護婦さんに相談してベッドでの生活に切り替えた。

D氏の場合
:小学生4年の時、ころびやすくなっていた。それでもまだ歩いていたが、装具の靴のかかとを車いすで踏まれて、こけてしまった。そのときにねんざをしてしまった。直った頃には歩けなくなっていた。
なるべく長く歩いていたかったとの思いはあったが、落ち込みはしなかった。

へたれ自慢研究会 B班

今回の『へたれ』は、『やる気が持続しない。』です。

A:『自分のへたれはたくさんあるけど、どれも自分の
  性格の1つだし、困った時の対処方法も自分の中に
  あるんだ。でも、何をしてもやる気が持続しないことだけは
  どうしていいのかわからなくなる。(><)』
B:『具体的にはどんな感じなの??』
A:『何か課題をやってても「これをやって自分にプラスに
  なるのかな?」とか「こんなんでいいのかな?」って
  色々考えてしまう。目標ばかりが高くなって結局できなくて
  途中でやる気がなくなるんだ。』
C:『前の僕と似てるかも。僕も前は目標ばっか大きくなって
  結局できなくて持続しなかったよ。今は、大きな目標じゃ
  なくて1つ1つの小さな目標をクリアするようにしてからは
  少し気持ちがラクになったけど。』
A:『自分では考えすぎなのかなとも思うんだけど。。。
  やっぱり、完璧を求めちゃう。理想が高くなって結果を期待
  しすぎて理想と現実が違うと続かないんだよね(**)』
D:『なぜ、そうするのか考えることは凄く大切だけど、
  考え過ぎるのって自分を追い詰めちゃうし、よくないよ。』
E:『月の半分くらいは適度に肩の力を抜いた方がいいのかも。』

ここまで話をした段階で時間が来てしまいました。
今回のへたれでは、A君の悩みは解決されなかったので
次回、引き続きA君のへたれについて研究会で話し合います。

上肢障害者用携帯電話操作コントローラ

ファンコムの松尾さんとの共同プロジェクト!もぼちぼち動きだしていますよ~。(*^_^*)

この装置。1入力ではオートスキャン・ステップスキャンができ、
2入力(二つのスイッチ)では、選択と決定。後、5つのスイッチでは、前後左右と決定の機能があります。

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とりあえず、よっしーの車いすに装着!
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なんか・・・。ハウルの城みたーいい。(~o~)

どうぶつしょうぎトーナメントはじまる。。

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いよいよはじまった。どうぶつしょうぎ。

4人一組のチーム戦。
さて、どうなる?

3Bラジオin コレスペ!

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さて、本番を迎え。若干緊張の面々。
「いっちーと、いずみの3Bラジオー」でいよいよはじまりました!

これまで、先輩に聞いた、インタビュー内容と歌を混ぜ合わせ、りっぱなパーソナリティーをつとめてくれました(^_-)

中でも、れべっかのフレンズにはおどろきました(*_*)

いずみくんからのコメントに感動!
「コレスペってなあにというテーマでしたが、自分の趣味やお客さんにたのまれた仕事がある。インタビューしてはじめてわかった。つながっている。つながりのためにコレスペがあるのかな・。。」
とのことでした~。

最後に二人そろって、メッセージ。
「卒業してから、宜しくお願いします。!(^^)!」

予定放送時間を大幅に延長し30分の生ラジオ。
お疲れ様でした~。

iPhone操作用てぶくろ

梶谷さんより、てぶくろの情報をもらました(^_^)v
iPhone操作用てぶくろ

中邑先生来院

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東京大学先端科学技術センターの中邑先生と奥山先生が来院されました。
今回は、養護学校での講義と、WEB会議メンバーとの面談。
「プロとはなにか?当事者とはなにか?」
この言葉が強く響いた一日でした!

3Bラジオin コレスペ

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さあ、いよいよ冬休み。
みなさん、いかがお過ごしですか?
宿題に追われている人。。いないかな~?

さて、この3月に卒業する3B生徒は、自立活動の時間で、3bラジオなるものの、パーソナリティーをしているらしい。。。

そこで、この冬休みの時間をつかって、コレスペメンバーにお披露目とあいなることになりました。。

テーマは、「コレスペってなあに?」

漠然と、卒業したらコレスペで、絵を描きたい。仕事をしたいという彼ら。でも、コレスペってなあに?そんな疑問から、先輩に質問をしながら、当日ラジオをすることになりました。

本日は、インタビュー調査!
質問項目は以下。
1.今どんな活動をしていますか?
2.いつからですか?
3.はじめたきっかけを教えてください。
4.はじめた頃の気持ちを教えてください。
5.では、今の気持ちは?
6.その変化はなぜ起こったと思いますか?
7.これから何をしていきたいですか?
8.最後に、僕たちにアドバイスをお願いします。

の、全8項目。
本日も、それぞれの持ち味をいかした、役割分担をしながら自ら先輩をつかまえていましたよ~(*^_^*)

上肢障害者用携帯電話操作コントローラ

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レッツチャットでおなじみのファンコム株式会社の松尾さんからお仕事をいただきました。
現在、テクノエイド協会からの助成で、携帯電話のボタンが押せない人でも、操作しやすいようなコントローラを開発しています。

今回は、試作機のモニタ。
詳細はメンバーの彼らから後日報告してもらいますね。

PS3用リモコンの工夫

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プレイステーション3用のリモコンを工夫してほしいとの相談が舞い込みました。
どうやらベッドに横になった姿勢で操作をしたいようです。

まずは蓋をあけてみるとフィルム基盤がごしゃごしゃと。。。

そこで、どのボタンがどこにつながっているのかを探る、地道な作業が始まるのです。。